PENTHOUSE JAPAN(1998.2)夢の世界からの脱出〜これが私の20歳的型〜



青天の霹靂ともいえる写真集出版から4ヵ月。15歳でデビューをはたして以来、かたくなに水着を拒み、「菅野スタイル」を貫き通してきた彼女。女優として純粋に表現してきたなかで沸き起こった誹謗、中傷を通じ、何を思い、どう主張したかったのか。女優としての演技者、菅野としての自分。演じるほどに自己矛盾に陥る。本当の自分とは?変化した自分とは?20歳を迎えて「ありのままの自分」を今、あつく語る。

なんか違うと感じる「普通の私」がいた 20歳を迎えた97年一年を振り返って、箇条書きにするとたくさんのことがあった一年だとおもうんですけど、自分の意識のなかでは「特に」という感じがないんです。でも、10年後とか振り返ったら、97年はスゴく大きな変化があった年だと思うかもしれないな。

いまは、すべてがリアルタイムだから、まだぼんやりしていてよく分からないというのが本当なんです。20歳になったことについても「ちゃんとしたい」という気持ちはあるけれど、テンションを上げていこうっていうのはないですね。ちゃんとしたいっていうのは、普通にしたいということ。当たり前のことが当たり前にできるようになりたいんです。仕事でも、自分の靴をそろえるのもスタイリストさんがやってくれたり、自分の身の回りのことも他の人がやってくれる・・・・・。

お芝居にしても台本があって監督さんのOKテイクのつながり。そのなかに「自分」という意識がないんです。女優という仕事は自分一人では何もできないのに、人前に出てるというだけで赤ちゃんみたいに面倒をみてもらってるから、せめて自分のことは自分でやりたいなと思うんです。ゆくゆくは、もっともっと自分でやってみたいと思うんですよ。

でも、役者ほど誰でもできる仕事はないと思うんです。普通のことをしてるだけなのにたくさんのお金をもらったりする。だから有名税で人に見られたりプライベートを覗かれたりするのかなと、最近は思うようになりました。人目にさらされる仕事をしてるから、買い物をしてるときでも好奇心を持って私を見る人もいるし・・・・・。いま、私はそういうものに耐えられないし、許せないっていう気持ちもあるんです。本当は、自分でそういう仕事を選んだのだから、仕方がないと思わなくちゃいけないんだけど、まだそこまでいってないんですよね。今日はこの撮影の前に一人でコンビニに買い物に行ってきちゃいました(笑)。コンビニなんかに行くことは全然平気なんですよ。でも、行った先で声とかかけられちゃうと、どうしてもパッと引いちゃうんですよね。

イメージってとても恐いなって思うんだけど、私を見てる人にはその人なりの菅野美穂のイメージがあって、それは役のイメージだったり、写真集のことでいろいろあったことをイメージしてる人もいると思う。でも、私にはそれが分からないから・・・・・。その場を共有してても、そこに一緒にいる私を見ないで、イメージの私を見てる人のほうが多いと思う。いまの私は、そういうことに耐えることが辛いですね。

変化していく自分は当たり前だし、変わろうとして変われることって少ないと思うんですよ。変わりたくなくて変わることもあると思うけれど、イメージっていうのは不変な感じがするんですよ。だから私の場合もイメージ先行型だったのかなと。でも、私ぐらいイメージとかけ離れていること考えてる人っていないと思うもん。実は熱しやすく冷めやすい(笑)。私の唯一続いてる趣味が「天使もの集め」なんですよ。なんで天使かって?それは、自分といちばんかけ離れてるからなんだと思う(笑)。実は、すごくアナーキーな人だし。

自分の人格もテンションによって5つぐらいに分類されるしね。これは、3年ぐらい前に分類したんだけど。いちばんテンションが上がってるときは篠原ともえちゃんぐらい。5がいちばんのハイテンション。だから、ともえちゃんに会ったとき「懐かしいな、昔の自分がいる」って思ったもん。3が中心で1がグラビアモードの美少女系。おとなしくて「菅野さんって、何も話さない人でしょう」と思う人がいるくらい。でも、最近5はないですね。そろそろこれは廃番かな(笑)。

イメージということで言えば、仕事でも初対面に等しい人に「今日はいつもの菅ちゃんらしくないね」と言われたり、私は普通にしてるのに「なんか元気ないね」とか(笑)。でも、私も本当のプロなら、それをきちんと受け入れて消化して仕事で表現していけばいいんだし、それができないならその場にいる資格もないと思ってたんですよ。それなのにだんだん私は、それにガマンできなくなって「なんか違う」と思い始めてたんです。これが普通の私なのに「普通の私」を必要としてる場がホントにすごく少なかったと思ったんです。

徐々に自分のなかの何かが膨らんできました。仕事をし始めのころは熱中してるし、経験も少ないからすべてに対して「そういうものだと」思っていたけど、ある程度冷静になって落ち着いてくると「あれっ?」っていう感じになってきたんですよ。最初は分からないじゃないですか。ノウハウも何もないし、オトナの人が敷いてくれたレールの上で自分を出してゆくのが自分の作業だと思ってたし。でも、ある程度のことが分かってくると「どうしてなんだろう?」っていう疑問がフッと湧いてきたんです。それを受け入れられるか受け入れられないかで変わってくるんだけど、私はそれを受け入れられなくて・・・・・それで一回、自分のなかを白紙に戻したいと思った。

自分のエゴだったな写真集を出したのは

とにかく「違うな」と感じてたんです。私はお芝居とかして、他人の気持ちを考えるのがお仕事なのに「じゃ、自分はどうなの?」って思ったときに、ちゃんと考えてないなぁって。それで、いま自分がどんな状態なのかを知りたいなと思って、当時は「自分の写真」を撮ってみようと思ったんです。だから、写真集で何かを変えようと思ったわけでもないんです。とにかく自分のエゴだったんですね。なんか違うんだ、と思って・・・・・。

写真集を出すにいたるまでは、自分のなかでちゃんと段階や順序があったんです。でも、それを知らない人には飛躍してるように見えたんですね。それまでは水着のグラビアも絶対イヤだって言ってた人が「ポンとあんな写真集を出した」みたいにとられたと思うんですよ。ものを作ったり表現することが私の仕事なのに「どうしてあんな表現をしたんですか」と聞かれると辛いなぁと思う。

写真は「自分で見るだけでもよかったんじゃないの?」と言われて、確かにそれもあるんだけど、私は中身がよかったら何も問題はないと思った。だから、私が「いちばんキレイなカタチだな」と感じたものを一冊の本にまとめて出版して、本棚に立てかけておけるような記録にすることだったんです。

私は、そういうことに対してもちゃんと質問には答えてきたんですけど、報道ではうまく伝わらなかったみたい。素直でいよう、素直な気持ちを伝えようと思ったけど、ただそれだけじゃいけないんだとも思った。自分の思っていることをキチンと伝えたいと思ったら、感情的になっちゃいけないんだということも知ったし。ありのままでいいと思ったから、ああいう(人前で泣いたり)ことをしたけど、泣いたことはやっぱりエンターティメントになってしまって、違うカタチになって伝わってしまうんだと思いましたね。

そういう意味では、写真集を出版するにいたるまでの私の気持ちの変化を聞いてくれる人たちがすごく少なかった。それを発言できるチャンスが少ないと思うんです。きっとみんな悩んでるんだって、あの写真集を出してみて分かりました。例えば、こういう話をさせてもらえるインタビューも実はすごく少なくて、実際にページになってみると編集さんの筋書きをいうかリクエストで予定調和みたいになってた。あの写真集を出すまでは、そういうなかでの自分をうまく投影できればよかったのに、私は不器用でそれができなかったんですね。

正々堂々としたいね絶対卑屈にならずに

写真集を出したことは、結果的にはよかったです。撮影は自分のなかで有機質で変わった発見があると思ったけど、発売は無機質なもので自分の手を離れてしまったものだから、もう私にとって意味のあるものではなかった。ただ、発売後の周りのリアクションがすごかった。(悪意に満ちた記事など)それを職業にして生活している人達がいるんだってことも今回初めて知りましたから。でも、記事を書いてる人にも実際に写真集を見てない人が多かったみたいだし、中身について書かれてるものもなかったと思う。

私がそんな自分の写真を見て確認したことのひとつは、自分は「本当に普通なんだなぁ」って思ったこと。特別飛びぬけてカリスマ性があるとか、女優向けの資質があったわけじゃなくて、芸能界で仕事をして経験をしてきたからこういう考えになったんだなって。自分のなかにもともとあったものより、人に出会ったり経験したことのほうが、私自身を作っていくんだなと思った。

写真集発売後のリアクションは、よく分からないものもあったけど、こういうリアクションに向き合うこともこれからの私を作っていく要素だと思った。だから、自分で決心したことだから絶対に卑屈にならないで正々堂々としてればいいんだと思ったんです。やっぱり、5年ぐらい芸能界で仕事をしてきたけど知らなすぎたんだと思う。それはこの世界のしくみとかに自分から興味を示さなすぎたからだと思うんです。だから、いい勉強だったと思います。

写真集をだしたころの自分自身ギャップやフラストレーションはなくなって、いまは「もうなんでもありかな」と思うようになりました。私は楽になりました。自分から周りの期待とかにとらわれたらいけないんだなと思うようになった。それが大きいかな。いい意味でも写真集の件では自分を追い詰めたかなとは思う。こうしてみると、私は変わらないといいつつ変わったんだとおもいますね。自然と変わっちゃうときは変わるんだなと。・・・・・さっきの話とは矛盾してますけど。

「一人はええなぁ」最近はシミジミ思う

いま私が求めてるものってなんだろう・・・・・。ほしいものはないですね。でも、台本とかをもらっても以前に比べてなんだか新鮮さがなくなったり、台本をもらえるのが当たり前になってる自分がいるなぁっていう感じがする。

仕事での満足感があまり持続しないの、あまり、最近は(笑)。きちんと現状把握ができなくなっちゃって、自分でお芝居してても「あ、だめだな」と思っても監督がOKをしてて「もう一回お願いします」ってやっても、前回とは比べものにならないくらいダメだったりするんですよ。最近、私も役者として普通の人よりいっぱい喜怒哀楽に触れなければいけないと思うし、人よりクールじゃなければいけないと思うのに、そのクールがゼンゼンなくなってるような感じがするんですよ。

例えば、さっきも話したけど、演技は感情を扱う仕事だから「普段はクールに」と思っても、ドラマに入るといきなりヒステリーになって、すごく落ち込んで控室にカギをかけて出てこなかったりもする。でも、自分自身に「足りない」とか、「ダメだ」と思っても、すぐ立ち直りモードになるんです。自分のことは悩んでても生産的じゃないから。

でも他人に自分の感情をぶつけてもしょうがないと思う。ほんとは穏やかで健やかに過ごしたいのに、そういう環境にないときにはクルマのなかはポイント(笑)。唯一クルマのなかが感情のぶつけどころなんですよ。私はそういう閉鎖的な空間が好きなんですね。タクシーの運転手さんて、当たりハズレが多いじゃないですか。"当たり"のタクシーのなかでは、自分の家よりも考えごとをしやすいんです。景色が移っていくのがいいのかもしれないけど。一時期、自分の家の中でも泣けないし、親友の前でも泣けなったのにタクシーの中では泣けたから。もう自分でもわからなくなってきてるんですよね。普通に感じることができなくなってる気がする。それは、いちばん危ないんだろうと。あんまりワクワクしない自分を感じてて、それはたぶんネタ切れなんだろうなって。

だから、自分のカラダを動かして吸収することをしたい。芝居の中では、どんなにカラダを動かしていても、夢の世界だから。とりあえず、グチャグチャしすぎてるから一回落ち着きたいなと思うんですよ。でも、仕事をしてると「まだ足りない、こんなんじゃ足りない」って思うし、どっちをとったらいいのか分からない(笑)。役も出会いだからタイミングがあったときにやらないと後悔すると思うし、でもこんなアイマイのままやっててもしょうがない、とか本当に悩みますね。だから、もし時間があったら外国に行きたいと思ってるんですよ。自分で泊まるところも手配して、私一人で行きたいんです。全然勉強しなくなっちゃったから、言葉を学んだりするのもいいかなと。

そういう危機感とか意識を本当は持っていなきゃいけないんだと思うんですよ。いま私がやってる役なんて、全然勉強しなくてもいいものがほとんどで「そのままの感性でやってください」っていうものばかりだし。それも大事だと思うけど、そればっかりだと、素材を集めて自分のなかで消化して役を作るということができなくなるんじゃないかと。現実の世界では、例えば取材とかではホントの自分を出す必要ってないのかもしれないと思うんですよ。

あえて言うと、私は一人が好きな人ですね(笑)。人と会う仕事をしてるのに、一人が好きですね。そういうことって多い?そうかな、そうかな(笑)。逆に人と触れ合わないでよければ、どんどん一人になっていたんじゃないかと思うんですよ。たまに、ただひたすら一人になりたいと思うことありますね。夜中に一人でカラオケに行ったりもするし(笑)。最近は「一人がいいな」とシミジミ思いますね。家ですごすときも買い物するときも「一人はええなぁ」と(笑)。それも、私がまだ子供だからかもしれないな。オトナになったら寂しくなるかも。私って自分でも偏ってると思いますから(笑)。

・・・・・本当のところ、私は友達と遊んだりすることがいちばんしたいんじゃないかなと思うんです。本も映画もいいけど、じかに友達とかに接したい。それが、最初に話した「普通のこと」なのかもしれないですね。普通の女の子としての恋愛?普通の・・・・・。あんまり恋愛のこととかを取材で話したくないなぁと思う。こういうところで話すと、メチャメチャ話が大きくなって恐いなと(笑)。都合のいいように書く人もいるし、取材でこういうことを話すことの怖さを思い知るべきだなと思うんですよね(笑)。そういうことも知らなすぎた。たとえ「はい」と答えても、いろんな「はい」にできるし。

適当がいちばんいい難しいことだけど

考えてみると、最近はやっぱり自分のことで精いっぱいなんですね。でも、新しいドラマはどんな感じかなとか。なんだかんだって、私、仕事に感心が向かってるんですね(笑)。新しいドラマは『DAYS』っていうんですけど、台本のなかで「機械でもガンガン使ったほうが調子はいいけど、寿命は短くなる」っていうのがあるんですよ。そういうことか「何でもほどもどに」っていうのがいいんだと。ほどほどとか適当って言葉のヒビキはアイマイでいい加減な感じがするけど、適当っていうのはそこじゃなくちゃいけなくて、上でも下でもいけないっていう難しいことなんだと。

だから、なにごとも普通に適当やるって感じですね(笑)。いまの私は、毎日それなりにやってるって感じですよ。なんかハイリスク・ハイリターンで、楽しいことばっかりやってると辛いこともやらなければいけなくなるから。人間ってオモシロイですね、疲れるけど楽しいなって。今回はいろいろお話しましたけど、なんだかんだ言ってもたかだか20歳の小娘の言うことですから(笑)。


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